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ゴッホの生涯と作品を解説。日本の芸術が与えた影響とは

ゴッホと日本

オランダのポスト印象派の画家である、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ。

ゴッホが日本の浮世絵に影響を受けたのは有名な話ですが、ゴッホの日本に関わるエピソードはそれだけではありません。ゴッホの作品、生涯とともにご紹介いたします。

ゴッホが日本の芸術に出会うまで(1853年 - 1885年)

ゴッホは、1853年、オランダ南部の村のズンデルトに生まれました。

1869年から76年までは、美術商会社であるグーピル商会に勤め、その後は職を転々としていきました。

ゴッホが本格的に画家を目指し始めたのは、1980年、27歳の時のこと。この年にゴッホはベルギーのブリュッセル王立美術アカデミーで絵に関する勉強をしました。

1881年には、オランダのハーグに戻り、ハーグ派の中心的な人物であるアントン・モーヴに油絵と水彩画の基本を教わりました。ハーグ派とは、オランダのハーグで活動した画家たちのことで、屋外での自然観察を基に、農村や海岸の風景やそこで働く人々などを中心に描きました。

ハーグ派は、灰色系の色調を用いることが多く、その影響を受けていたゴッホの絵もこの頃は、暗い色を使う傾向にありました

ジャガイモを食べる人々

フィンセント・ファン・ゴッホ 《ジャガイモを食べる人々》 1885年

この頃のゴッホの絵は、後期の鮮やかな色調とは対照的で素朴な作風です。

 

アントワープ ~ゴッホと浮世絵の出会い~(1885年末 - 1886年初頭)

1885年、ゴッホは、ベルギーのアントワープへ移りました。そこでゴッホは浮世絵に出会いました

同年、アントワープでは万国博覧会が開催されました。19世紀中期、後期の万国博覧会では日本の美術工芸品が度々展示され、人々の日本文化に対する関心が高まっていました。ゴッホが浮世絵に出会ったのは、そういったジャポニスムという日本趣味の流行が背景としてあります。

 

ジャポニスム

19世紀後半、日本が開国したことで、日本と西洋との交流が盛んになり、ヨーロッパでは、日本の美術品や工芸品が紹介されるようになりました。その異国的な独特のデザインや造形が当時の人々の関心を引き、それらは芸術家に大きな影響を与えました。そういった影響によって流行した日本趣味をジャポニスムといいます。

特に、葛飾北斎や歌川広重はヨーロッパでも人気でした。

東海道五十三次之内 日本橋

歌川広重 《東海道五十三次之内 日本橋》 1833-34年

ジャポニスムは、当時の印象派の画家たちに熱狂的に受け入れられました。画家たちは、絵の構図や色使いといった技法だけでなく、女性に着物を着せたり、浮世絵を背景にしたり、人物にうちわや扇子を持たせるなど、日本的な要素を絵の中に取り入れるようになりました。

ジャポニスムがなければ、偉大な画家たちが残した作品は全く別のものになっていたかもしれません。

ジャポニスムとジャポニズムの違い

この記事では「ジャポニム」と表記していますが、「ジャポニム」という表記が間違っているわけではありません。どちらも同じ意味です。フランス語ではジャポニスム(Japonisme)、英語ではジャポニズム(Japonism)と表記されます。

 

はじめて買った浮世絵

そういった日本文化がヨーロッパで浸透していく中、ゴッホは、日本の浮世絵に興味を持ちました。ある日、ゴッホは複数の浮世絵を購入し、それらをスタジオの壁に飾りました。

以下の内容は、ゴッホが弟のテオに向けてその時の様子を書いた手紙の文です。

私の作業場はまずまずになった。特にとても楽しい日本の版画を壁に飾ったからだ。ほら、庭や海岸にいる小さな女性や、馬に乗る人、花、節のある枝の絵だよ。

原文:Mijn werkplaats is nog al dragelijk. vooral omdat ik een partij japansche prentjes tegen de muren heb gespeld die mij erg amuseeren. Ge weet wel, van die vrouwenfiguurtjes in tuinen of aan ’t strand, ruiters, bloemen, knoestige doorntakken.

ゴッホからテオに向けて 1885年11月28日 アントワープ

上記の手紙はゴッホが初めて日本の浮世絵に対する興味を書いたものです。

ゴッホは、現存するだけで約800通もの手紙を書いたことがわかっており、その中に日本のことについて書かれた手紙が複数存在します。

 

パリ ~印象派との交流~(1886年 - 1888年初頭)

1886年、ゴッホはフランスのパリに移り、弟のテオとともに暮らしました。

パリでゴッホは、カミーユ・ピサロやエドガー・ドガといった印象派の画家、またポール・シニャック、ジョルジュ・スーラといったポスト印象派の画家たちに出会い、交流を深めました。

彼ら印象派の明るく、大胆なタッチの絵にゴッホは大きな影響を受け、ゴッホの絵も明るい色彩が目立つようになりました。1886年から1887年にかけて、絵の変化を見て取ることができます。

ゴッホ自画像

(左)フィンセント・ファン・ゴッホ 《自画像》 1886年秋
(右)フィンセント・ファン・ゴッホ 《自画像》 1887年春

ただ印象派の真似をしたのではなく、いくつもの線を重ねたり、色を厚くするなどの工夫を加えることで、独自の画風を作り上げていきました。

また画風の変化には日本の浮世絵も影響を与えています。

 

浮世絵の収集と研究

ヨーロッパの中でも特にフランスは、日本趣味が流行していました。日本美術工芸品の流通に大きな貢献をした美術商であるサミュエル・ビングは、パリに店を構えていました。そこでゴッホは1886年から87年にかけての冬の間に、計660点もの浮世絵版画を購入したそうです。

ゴッホは、ただ浮世絵を買っただけでなく、浮世絵を研究し、その独特な構図やデザインの要素を自分の作品の中に取り込もうとしました

 

浮世絵とゴッホの絵

以下の複数の油絵は1887年頃にパリで、ゴッホが浮世絵を参考にして書いたものです。浮世絵の模写は3点存在しており、右の絵がゴッホの模写、左がオリジナルの絵です。

名所江戸百景 亀戸梅屋舗

名所江戸百景 亀戸梅屋舗

(左)歌川広重 《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》 1857年
(右)フィンセント・ファン・ゴッホ 《ジャポネズリー:梅の開花》 1887年10月-11月

歌川広重の『名所江戸百景 亀戸梅屋舗』の模写です。ゴッホの模写は、浮世絵の平面的な要素を受け継ぎながらも、油彩で描かれており、浮世絵よりも重たい質感になっています。縁に書かれている漢字は他の版画から持ってこられたものです。

浮世絵から受け継がれる輪郭線

浮世絵には輪郭線がはっきりと描かれています。フランスに来る以前のハーグ派の頃のゴッホの絵には、輪郭線はあまり描かれていませんでしたが、浮世絵の影響を受けてからは、ゴッホは輪郭線を描くことが多くなりました。特に晩年の作品には、顕著に輪郭線が描かれています。

 

名所江戸百景 大はしあたけの夕立

名所江戸百景 大はしあたけの夕立

(左)歌川広重 《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》 1857年
(右)フィンセント・ファン・ゴッホ 《ジャポネズリー:雨の橋》 1887年10月-11月

歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』の模写です。こちらのゴッホの絵は、オリジナルより色を厚く塗っており、また海や橋の下の影を書くことで立体感が出ています。

 

雲龍打掛の花魁

雲龍打掛の花魁

(左)溪斎英泉 《雲龍打掛の花魁》 1820~1830年代
(右)フィンセント・ファン・ゴッホ 《ジャポネズリー:おいらん》1887年10月-11月

溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』の模写です。オリジナルのものよりも、ゴッホの模写は明るく色鮮やかに彩られています。背景にはカエルや鶴、蓮、竹など日本的な要素をちりばめています。またゴッホが描いた花魁の表情は、心なしか微笑んでいるように見えます。

 

タンギー爺さん

タンギー爺さん

(左)フィンセント・ファン・ゴッホ 《タンギー爺さん》 1887年夏
(右)フィンセント・ファン・ゴッホ 《タンギー爺さん》 1887年冬

同じ構図でも絵の雰囲気が違いますが、2枚ともゴッホが描いたものです。左の絵は1887年の夏、右の絵は1887年の冬に描かれたものです。浮世絵を大胆に背景に取り入れ、いかにゴッホが浮世絵に夢中だったかが絵に表れています。

花魁が反対を向いている理由
パリ・イリュストレ

『パリ・イリュストレ』 日本特集号 - 1886年5月

タンギー爺さんの背景には、先ほど紹介した溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』があります。ゴッホが描く『雲龍打掛の花魁』は2つともオリジナルから反転した姿になっています。

その理由はゴッホが絵を描く際、『パリ・イリュストレ』の日本特集号の表紙をもとにしたからです。花魁が反転した姿で表紙に大きく載っています。

ちなみに『パリ・イリュストレ』の日本特集号は、日本の文化や歴史、風土といった日本の様々な特徴を紹介しています。日本の美術商である林忠正が携わって作られました。

 

アルル ~日本への憧れ~(1888年 - 1889年5月)

ゴッホはパリで約2年間暮らしました。しかし、ゴッホにとってパリは安らかに落ち着ける場所ではなく、ストレスによりたばこや酒を過度に摂取し、体を悪くしていました。そこで、1888年2月に、ゴッホは弟のテオのもとを離れ、南フランスのアルルで静養することにしました。

ゴッホは、アルルに来る前、南フランスを日本と同じような場所であると思い、また新たな芸術に出会う可能性を秘めていると考えていました。

アルルに来て間もない頃の心境を、ゴッホは以下のような手紙を残しています。

まず、この地域は明るい雰囲気と明るい色の効果により、日本と同じくらい美しいように思える。水の広がりは、日本版画に見るような、美しいエメラルドと豊かな青色を風景の中に生み出している。

原文: je veux commencer par te dire que le pays me parait aussi beau que le Japon pour la limpidité de l’atmosphère et les effets de couleur gaie. Les eaux font des taches d’un bel éméraude et d’un riche bleu dans les paysages ainsi que nous le voyons dans les crepons.

ゴッホからエミール・ベルナールに向けて 1888年3月18日 アルル

手紙から、ゴッホの期待通り、アルルには日本の雰囲気があったことがわかります。ゴッホは日本に行ったことはないものの、浮世絵や本などから日本の姿を想像し、それをアルルに当てはめていました。

 

日本人的な見方を会得

ゴッホは日本を思わせるアルルで暮らすことで、日本の芸術の技法を作品に取り入れるだけでなく、ゴッホ自身、日本人的なものの見方を身に付けました

以下の絵は、ゴッホが日本人的なものの見方を会得したことで生まれた作品です。

ラ・ムスメ

ラ・ムスメ

フィンセント・ファン・ゴッホ 《ラ・ムスメ》 1888年7月

ゴッホはピエール・ロティの日本を題材にした小説『お菊さん』を読んで、「ムスメ」という日本語を知り、それを作品の題にしました。

ゴッホの手紙によると、絵に描かれているのは、アルルの少女ですが、ゴッホは日本の少女を想像し、アルルの少女にそのイメージを重ね合わせて『ラ・ムスメ』を描きました。
補色の関係にある青とオレンジを用いることで、より少女の存在を引き立てています。手に持っているものはキョウチクトウと呼ばれる花です。

 

ゴッホの芸術観の根本にある日本の芸術

『ラ・ムスメ』が描かれた頃の手紙には、ゴッホの画業を語る上で欠かすことのできない重要な言葉が残されています。

全ての私の作品はジャポネズリーにどこかしら基づいている…

原文:Tout mon travail est un peu basée sur la japonaiserie...

ゴッホからテオに向けて 1888年7月15日 アルル

ジャポネズリーはジャポニスムと同じく日本趣味のことを指します。

「全て」と付けてしまうほど、ゴッホの芸術観を形成する上で、日本の芸術が重要な存在だったことがわかります。

成熟したゴッホの絵

ゴッホはアルルに来てから、より優れた色彩感覚や力強い筆致を手に入れ、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』といった名作を次々に生み出しました。

しかし、ゴッホにとって理想の地かと思われたアルルでの生活は、そう順風満帆にいきませんでした。

 

耳切り事件

ゴッホは拠点となる黄色い家に画家たちを集め、共同体を作ることを夢見ていました。

ところが、実際に来たのはポール・ゴーギャンだけでした。1888年10月末から二人の共同生活が始まりましたが、2人の意見は食い違うことが多く、次第に口論が絶えなくなりました。

同年の12月23日、ポール・ゴーギャンとの険悪な共同生活の末、錯乱したゴッホは左耳を切り落とす事件を起こしました。

耳を切った後、ゴッホは入院し、発作を起こすものの容態は回復し、年が明けて間もなく黄色い家に戻りました。しかし、ゴーギャンは事件後、黄色い家から出ていき、画家の共同体を作る夢は2か月程であえなく潰えました。

耳を切った自画像

自画像

フィンセント・ファン・ゴッホ 《耳を切った自画像》 1889年1月

『耳を切った自画像』は、耳切り事件の退院後に描かれた絵です。耳に包帯がまかれておりており、背景には、富士山と2人の踊っている芸子が描かれた浮世絵があります。

退院後、この作品以外にも『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』といった作品を完成させましたが、再び入院し、精神的に不安定な状態が続きました。

 

サン=レミ ~揺らぐ感情と絵~(1889年5月 – 1890年5月)

1889年5月、ゴッホは療養のため、フランス南部のサン=レミにある療養所に移りました。

この頃のゴッホの絵は実物のものの形は重視せず、『星月夜』や『二本の糸杉』に見られるようなうねるタッチの作品が増えました。ゴッホは度々発作に苦しみつつも、多くの傑作を残し、ゴッホの絵を高く評価する人が段々現れるようになりました。

星月夜

フィンセント・ファン・ゴッホ 《星月夜》 1889年6月

この作品は、ゴッホが療養所の窓から見た景色に触発され描かれた風景画です。見たままの景色を描いたわけではないので、実際にこのような景色が存在するわけではありません。

 

変わるものと変わらないもの

ゴッホが書く手紙には、自身の病状に関する内容が多くなり、日本の芸術が話題になることはなくなっていました。しかし、ゴッホは日本に興味を失ったわけではなく、この時代の作品の中にも日本的な様式を絵の中に溶け込ませています。

花咲くアーモンドの木の枝

花咲くアーモンドの木の枝

フィンセント・ファン・ゴッホ 《花咲くアーモンドの木の枝》 1890年2月

この絵は、弟のテオとその妻のヨーの間に生まれた子供のために描かれたものです。アーモンドの木には、春の初めに開花することから、新しい生命の象徴という意味があります。

浮世絵のように全体像ではなく、印象的な部分だけが切り取られ、また輪郭線があることよって、凛とした趣となっています。

 

オーヴェル=シュル=オワーズ ~ゴッホの最期~(1890年5月 - 7月)

1890年5月、サン=レミの療養所が合わないと感じたゴッホは、新たな療養の地として、パリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズに移りました。この地では、たった2ヶ月で約70点の作品を残すほど、創作意欲が湧いていました。

しかし、7月27日、ゴッホは麦畑で自身の胸を銃で撃ち、重傷を負いました。心臓に弾丸が当たらなかったため、即死することはなかったものの容態は良くならず、29日、ゴッホは37歳で息を引き取りました。

ファン・ゴッホ美術館によると、ゴッホは自殺したとの見解を出していますが、ゴッホがなぜ自殺をするに至ったのか、詳細はわかっていません。他殺の可能性を主張する説も出ています。

 

ゴッホの死後

ゴッホの死から半年後、ゴッホと親しかった弟のテオも後を追うように、亡くなりました。

テオの死後、テオの妻であったヨーがゴッホの作品を保管しました。ヨーはゴッホの絵の展示会を開いたり、ゴッホの数多くの手紙をまとめた書簡集を出版するなど、ゴッホの存在を世に知らせるのに大きな貢献をしました。またゴッホが持っていた浮世絵もヨーが保管し、現在はファン・ゴッホ美術館がその多くを保管しています。

今回の記事では、ゴッホの数あるエピソードの中でも日本に関わるものを中心に記述しました。絵や手紙を見ると、ゴッホは日本人以上に日本の芸術に惚れ込んでいたように思えます。ゴッホの画業を語る上で、ゴッホの絵と日本の芸術は切っても切れない関係でしょう。

日本でもいくつかゴッホの作品が所蔵されていますので、足を運んでみてはいかがでしょうか。日本人だからこそ、感じ取れるものがあるかもしれません。

 

もっとゴッホについて知りたい方は

ゴッホのことについてより深く知りたい方は、以下の書籍や映画、ウェブサイトを参考にしてみてください。

ゴッホの生涯と作品を読み解く必読書

圀府寺 司

もっと知りたいゴッホ 生涯と作品

日本のゴッホ研究の第一人者である圀府寺司さんの著書です。ゴッホが生み出した作品と共に、彼の生涯を振り返ります。わかりやすい解説とオールカラーでゴッホの作品やそれに関連する図解がまんべんなく掲載されており、入門者にもおすすめな一冊です。

 

映画で描かれるゴッホの人生

監督:アンドリュー・ハットン

ゴッホ 真実の手紙

ゴッホが残した手紙をもとに、波乱に満ちたゴッホの人生を描いた映画です。ゴッホの暗い病的な一面も包み隠さず描写され、生々しくゴッホの生涯が再現されています。また当時の情景が再現されているため、ゴッホが観たであろう時代の風景を知ることができます。

 

ゴッホの生涯を描く伝記漫画

フカキ ショウコ(漫画)、木村 泰司(監修)

ゴッホ (コミック版世界の伝記)

ゴッホの人柄や、激動の人生に迫ることができる伝記漫画です。さらっとゴッホについて学びたい方におすすめです。

 

参考にさせて頂いたサイト

Van Gogh Museum “日本のインスピレーション”
https://www.vangoghmuseum.nl/ja/visitor-information-japanese/inspiration-from-japan#0

↓日本語には対応していませんが、ゴッホの手紙を読むことができるサイトです。
Van Gogh Museum “Van Gogh as a letter-writer”
http://www.vangoghletters.org/vg/

著者:みどり編集部著者

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